東京地方裁判所 平成7年(ワ)8253号 判決
原告 甲野春子
原告 甲野太郎
原告 甲野夏子
右三名訴訟代理人弁護士 澤藤統一郎
被告 学校法人順天堂
右代表者理事 石井昌三
右訴訟代理人弁護士 手塚一男
右訴訟復代理人弁護士 木崎孝
主文
一 被告は、原告甲野春子に対し、二五九〇万〇六七〇円及びこれに対する平成七年五月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費用はこれを二分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。
四 この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
被告は、原告甲野春子(以下「原告春子」という。)に対し四四〇〇万円、原告甲野太郎(以下「原告太郎」という。)に対し五五〇万円、原告甲野夏子(以下「原告夏子」という。)に対し五五〇万円及びこれらに対する平成四年八月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、原告らが、被告の経営する病院において原告春子が脳動脈瘤のクリッピング手術を受けた際、担当医師が右手術の実施に当たって、<1>手術適応に関する判断を誤り、<2>術前の説明義務を怠り、<3>術前管理を怠り、<4>手術手技を誤った過失により、原告春子が重篤な後遺障害を受けた旨主張して、診療契約上の債務不履行に基づき、逸失利益、慰謝料及び弁護士費用の損害賠償を求めた事案である。
一 前提となる事実(証拠を掲記しない部分については争いがない。)
1 当事者
原告太郎は原告春子の夫、原告夏子は原告春子の子である(弁論の全趣旨)。
被告は、東京都文京区本郷三丁目一番三号において順天堂大学医学部附属順天堂医院(以下「被告病院」という。)を経営している学校法人である。
2 被告病院における診療
原告春子は、平成四年七月四日、突然おかしなことをしゃべり出すようになったため、近所のかかりつけの開業医である雪下国雄医師の診察を受け、同医師から被告病院脳神経外科の佐藤潔教授の紹介を受けた。
そこで、原告春子は、同月一〇日、被告病院脳神経外科で受診し、以後、CT、MRI及びMRA検査を受けたところ、右の突発症状については特段の診断がされなかったが、原告春子の脳底付近に未破裂脳動脈瘤の存在が疑われた。
原告春子は、被告病院の医師の推奨を受けて、同年八月一九日、精密検査のため被告病院に入院し、同月二一日、脳血管撮影検査を受けた結果、四個の未破裂脳動脈瘤の存在が確認された。
3 脳動脈瘤クリッピング手術の実施
被告病院の武田信昭医師(以下「武田医師」という。)らは、平成四年八月二八日、原告春子に対し、四個の未破裂脳動脈瘤のうち左側内頸動脈瘤以外の三個の脳動脈瘤をクリツピングする手術(以下「本件手術」という。)を施行した。なお、その際、術野を確保するため、原告春子の架橋静脈が切断された。
4 本件手術後の経過
翌二九日午後、原告春子に意識障害が発生し、頭部CT検査の結果、脳腫脹が認められた。武田医師は、同日夜、原告太郎から再手術の承諾を得た上で、同日深夜から翌三〇日早朝にかけて、原告春子に対し、頭蓋内圧亢進を軽減するため右前頭葉切除術を施行した。
二 原告らの主張
1 本件手術による後遺症
原告春子は、昭和一九年一月二三日生まれの健康な家庭の主婦、二児の母であるとともに、事務員として職業生活を送っていた者である。
ところが、本件手術において原告春子の架橋静脈が切断された結果、静脈性脳梗塞が発生し、脳圧が亢進してCT上顕著な脳浮腫が発現したため、再手術により右前頭葉切除のやむなきに至った。その結果、原告春子は、意識、視力及び嗅覚等脳神経系の機能に重大な侵襲を受けて、視野狭窄、嗅覚喪失、左半身麻痺、意識障害及び人格変化等の後遺障害を生じ、自宅にこもりきりの生活を余儀なくされている。完全に労働能力を喪失するとともに、終生介護が必要な状態となり、さらに、人格変化によって生きる喜びを奪われた状態にある。
2 診療契約の締結と被告の債務不履行
原告春子は、平成四年八月二一日、被告との間で、診療契約を締結し、これにより、被告は、原告春子に対し、最新の臨床医学の水準に相応した適切な診察と治療をすべき診療債務を負担した。
ところが、被告は、右診療債務の内容として次のとおり具体的義務を負担していたにもかかわらず、これを怠った過失により、右1の後遺症を原告春子に発生させたものである。
(一) 手術適応に関する過失
被告病院の医師には、本件手術が客観的な手術適応を欠いており、本来実施すべきではなかったにもかかわらず、あえて本件手術を実施した過失がある。とりわけ、本件架橋静脈切断の原因となった右側前大脳動脈遠位部動脈瘤(最大径二ミリメートル)のクリッピング手術は、架橋静脈の切断のリスクを冒してまで実施すべきものではなく、明らかに手術適応を欠いていたというべきである。
すなわち、全身麻酔下に頭蓋を穿孔して脳内に分け入る脳外科手術においては、手術自体の危険が極めて大きいので、その適応判断には極めて慎重な配慮を要する。本件手術も、明らかに原告春子に多大な侵襲を伴うものであり、重篤な結果となる確率も高いものであった。特に、本件においては、シルビウス静脈の発達が不全であったのであり、このような場合には、架橋静脈が脳内の静脈血液環流に重要な役割を果たしているため、これを切断することは、極めて危険性の高い手技であった。
他方、原告春子の脳動脈瘤は無症候性であり、本件手術は将来起こり得る脳動脈瘤破裂という万一の事態を回避するためのものであったが、このような未破裂脳動脈瘤については、径五ミリメートル以上のものについては手術的治療が勧められるが、それ以下のものについては経過観察を行うべきであり、原則として手術適応はないというのが現在の医学的知見である。
このように、本件手術の危険性が極めて高く、脳動脈瘤が破裂しない可能性も否定できないこと、さらに、右のような医学的知見があることにかんがみれば、原告春子の右側前大脳動脈遠位部動脈瘤については手術適応がなかったというべきである。
(二) 説明義務違反
被告病院の医師には、原告らに対し、本件手術の必要性のみならず、その危険性についても、事前に正確かつ十分な説明をすべき義務があったにもかかわらず、これを怠った過失がある。
すなわち、武田医師は、本件手術実施前、原告春子に対して、本件手術を実施した場合のメリットと本件手術を実施せず放置した場合のリスクについて説明したのみであり、本件手術自体のリスクについては説明をした形跡が全くない。また、本件手術を実施せずに放置した場合のリスクについての説明は、当時の医学的知見からしても不正確で誇張されたものであった。
武田医師は、原告らに対し、現在の状態では爆弾を背負って生きているようなものである、未破裂の動脈瘤は安全に処置できるのだから、この際手術をして動脈瘤を処置し、安心して今後の生活をした方がよい、医療に絶対ということはないが、原告春子の場合は大丈夫である、破裂動脈瘤の手術だと大変だが、未破裂動脈瘤の手術だから安心して欲しい旨の説明をした。
さらに、佐藤教授は、原告らに対して、本件手術はただクリップするだけであり、危険なことはやらない、原告春子の場合には急を要する状態ではないからいくらでも時間をかけて安全に処理できる、現在まで何百例もの症例を経験しているが失敗はなかった旨説得し、本件手術の危険性については全く説明しなかった。
(三) 術前管理に関する過失
被告病院の医師には、本件手術に先立って、本件手術の実施に原告春子が具体的適応を有しているか、また、本件手術中の安全性に支障が生じないか、といった点について万全を期すべく、十分な観察や検査など術前管理を尽くすべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠った過失がある。
すなわち、原告春子に対する右側前大脳動脈瘤のクリッピング手術に際しては、インターヘミスフェリック・アプローチを採用することが予定されており、場合によっては架橋静脈が施術の支障となることが予想されていた。他方、原告春子の脳動脈瘤は無症候性のもので、本件手術を強行する必然性は全くなかったのである。このような状況下においては、被告病院の医師には、架橋静脈の位置やその発達の程度、流域範囲の広狭、これを切断した場合に代替血流路となるシルビウス静脈の発達の程度等に関して、頻回で丁寧な脳血管撮影等の画像診断によって十分な観察をすべき注意義務があった。
しかるに、本件手術の術前管理において、被告病院の医師がこのことに関心を有していた形跡はなく、この点において過失がある。
(四) 手術手技に関する過失
(1) 被告病院の医師には、本件手術を実施した際、脳べらの圧迫によって脳の表面を傷つけ、脳挫傷を生じさせた過失がある。
(2) さらに、被告病院の医師には、本件手術を実施した際、手技の不手際によって架橋静脈を切断してしまった過失がある。
(3) 仮に、架橋静脈を意識的に凝固切断したのだとしても、その判断には誤りがある。
すなわち、脳外科手術において架橋静脈の温存を図るべきことは一般脳外科医の常識となっており、特に、シルビウス静脈の発達が不全で架橋静脈が重要な役割を果たしている場合には、その切断は極めて危険であるから、温存すべきである。
ところが、被告病院の医師は、原告春子の架橋静脈の温存に意を用いずに切断した点において、過失がある。
3 原告らの損害
原告らは、被告の右2の債務不履行によって、以下の損害を被った。
(一) 原告春子の損害(逸失利益及び慰謝料合計四〇〇〇万円)
(1) 逸失利益
原告春子の主婦兼事務員としての労働能力喪失による逸失利益は、現症状の出現した平成四年から原告春子が六七歳となる二〇一一年まで一九年間の各年次における女子労働者の平均賃金額をもって評価すべきである。
賃金センサスによる原告春子と同年齢の女子労働者の平均賃金は年額三〇〇万円を超えている。したがって、ホフマン方式によって中間利息を控除すれば、次のとおり原告春子の逸失利益は三九三四万八〇〇〇円となる。
¥3,000,000×13.116(ホフマン係数)=¥39,348,000
(2) 慰謝料
原告春子の精神的損害を金銭に換算すれば、二〇〇〇万円が相当である。
(3) 内金請求
原告春子は、右1及び2の損害合計のうち四〇〇〇万円について、被告に対して賠償を求める。
(二) 原告太郎及び原告夏子の損害(慰謝料各五〇〇万円)
原告太郎及び原告夏子は、原告春子と同居する家族として、原告春子の発症以来その看護と介護に忙殺されている。この状態は将来まで継続するものである。また、重度の後遺障害、特に原告春子を奪われたに等しい人格変化について、原告太郎及び原告夏子は固有の精神的損害を被った。
看護における財産的損害は算定不能であるので、これも勘案した上で、原告太郎及び原告夏子の右精神的損害を金銭に換算すれば、各五〇〇万円が相当である。
(三) 弁護士費用(原告春子につき四〇〇万円、原告太郎及び原告夏子につき各五〇万円)
原告らは、原告ら代理人に対し、判決認容額の一〇パーセントに相当する報酬を支払うことを合意した。右弁護士費用は被告の債務不履行と相当因果関係のある損害である。
三 被告の主張
1 手術適応に関する過失について
原告春子の未破裂脳動脈瘤の個数、部位、大きさ、形状、性状、原告春子の年齢、他疾患の合併がないことなどを当てはめて総合的に検討すれば、本件手術には、適応があったことは明らかである。現に、鑑定人佐野公俊(以下「鑑定人佐野」という。)は、「手術は絶対に必要であったものと思われる」と述べ、特に重点をおいて鑑定依頼した直径二ミリメートルの右側前大脳動脈遠位部動脈瘤についても、「前大脳動脈系の瘤は破裂しやすい」との理由を挙げ、「このことを考えると手術の適応は疑いもなく必要であったといえる」と結論付けているところである。
なお、原告春子のシルビウス静脈が発達不全であったといっても、その程度は軽微で、事後的に振り返って初めて右発達不全が本件後遺症の原因となったのではないかと考えられる程度のものであり、手術適応を否定するような事情ではない。
また、直径五ミリメートル以下の動脈瘤であっても、個々の症例に応じて手術適応を判断すべきものであり、直径五ミリメートル以下の大きさの動脈瘤については経過観察をすべきとか、手術適応がないなどという原告の主張は誤りである。今日では、二ミリメートル程度の動脈瘤でも破裂することが臨床上しばしば経験されており、これらに対する手術も積極的に行われている。本件で手術した中大脳動脈瘤と脳底動脈瘤(いずれも直径六ミリメートル)はもとより、直径二ミリメートルと小さめであった前大脳動脈遠位部動脈瘤についても、十分手術適応のある大きさであったというべきである。
さらに、本件手術でクリッピングされた三つの脳動脈瘤は、いずれも中の血液の流れが肉眼ではっきり確認できるほど壁が薄く、いつ破裂してもおかしくない状態であったのであり、その手術適応に何ら問題はなかった。
なお、動脈瘤が大きくなっていく過程を追跡調査することはできるが、破裂時期を予想することは不可能であり、小さいサイズのまま明日破裂することもあるのである。一回の開頭手術でクリッピングできる脳動脈瘤はできるだけ処理してしまうべきであり、右中大脳動脈瘤及び脳底動脈瘤と同時に原告らが問題にしている前大脳動脈遠位部動脈瘤についてもクリッピングした武田医師の判断に誤りはない。
2 説明義務違反について
武田医師は、未破裂脳動脈瘤の自然経過につき、クモ膜下出血を伴わない症例についての年間破裂率は一ないし二パーセント程度、既にクモ膜下出血を起こしている症例についての年間破裂率は二ないし六パーセント程度と理解しており、原告らに対してこのような説明をしたところである。仮に、武田医師が原告春子の未破裂脳動脈瘤について年間破裂率は三パーセント程度と説明していたとしても、クモ膜下出血を伴わない未破裂脳動脈瘤の年間破裂率については、三パーセントあるいは四・八パーセントという報告もあり、未だ定説がない状況であるから、それが不正確あるいは誇張であるということにはならない。
また、武田医師は、脳の手術に絶対安全なものなどなく、脳べらで脳を圧排してアプローチするので痙攣発作等の後遺症が残ることもあること、動脈瘤の周辺の組織や血管が損傷され麻痺が残る可能性もあり得ることなどを十分説明した。本件は、手術を実施した場合のリスクよりも自然経過に任せた場合のリスクの方が明らかに大きいと判断できる症例であり、原告春子に手術の危険性を具体的数字を明示して説明すると、精神的緊張が増大し手術に悪影響を及ぼす可能性も考えられた。そのため、武田医師は、本件手術のリスクを具体的数字を明示せずに、自然経過に任せた場合のリスクよりも明らかに小さいという相対的な比較の形で説明をしたのであるが、このような説明であっても、原告春子が手術を受けるかどうかの判断をするには十分である。
したがって、被告病院の医師に説明義務違反はない。
3 術前管理に関する過失について
被告病院の医師は、原告春子の架橋静脈の位置及びシルビウス静脈の発達の程度については、本件手術前に脳血管撮影検査を行って十分把握しており、それ以上の検査を行う必要性もないし、その方法もなかった。そして、右検査で把握していた所見と、実際に開頭して確認した所見との間に何ら差異はなかった。
さらに、原告春子のシルビウス静脈の発達不全は軽度であり、本件手術前に右検査の結果からシルビウス静脈の発達不全による静脈性脳梗塞の発生を予見することは不可能であった。
したがって、被告病院の医師には、術前の検査及び観察が不十分であったという過失は存在しない。
4 手術手技に関する過失について
前大脳動脈遠位部動脈瘤に対してクリッピングを行うためには、その位置からして、インターヘミスフェリック・アプローチを採らざるを得ない。同アプローチにより動脈瘤に到達してクリッピング操作可能な術野を確保しようとする場合、架橋静脈と動脈瘤の位置関係によっては、術野を確保するための大脳半球裂の開裂が十分にできないことがある。このようなときには、やむを得ず架橋静脈を凝固切断して目的の動脈瘤に到達することになる。本件手術においても、前大脳動脈遠位部動脈瘤に到達するのに、どのような方向からアプローチしても前頭極の架橋静脈(上矢状静脈洞につながる架橋静脈のうち一番前方にあるもの)が障害となったので、これを凝固切断した。本件の架橋静脈は、二本の静脈が上矢状静脈洞に注ぐ直前で一本に合流する形となっていたところ、この合流する手前の二箇所を切断したものである。
架橋静脈を一本くらい凝固切断しても、その架橋静脈を介して環流していた静脈血は、その周囲の静脈群が代替して環流するので、普通は静脈性梗塞が起こるようなことはない。特に、上矢状静脈洞の前方三分の一に流れ込む架橋静脈については、これを切断しても静脈環流障害等の後遺症は何ら起こらない。実際、被告病院では、前頭葉の架橋静脈の凝固切断を何例も経験しているが、本件以外に静脈環流障害による後遺症が残った例はない。
他方、動脈瘤へのアプローチの障害となっている架橋静脈を温存したままクリッピングを行おうとする場合、大脳半球の開裂により架橋静脈に無理な力が加わり、ちぎれて大量出血する危険性がある。また、術野の確保が不十分なため、的確なクリッピングを実施できないという不都合も起こり得る。
こうしたところから、インターヘミスフェリック・アプローチで動脈瘤に到達するに際し、上矢状静脈洞の前方三分の一に流れ込む架橋静脈が障害となる場合には、無理をせず、あらかじめこれを凝固切断するというのが本件手術当時の脳神経外科医の通常の手法である。
武田医師は、本件手術の際、架橋静脈の太さ、走行状況、脳表への癒着の程度等を実際に確認し、架橋静脈を剥離して温存したまま前大脳動脈遠位部動脈瘤をクリッピングできるかどうか検討したが、無理をしてこの剥離を行えば架橋静脈がちぎれてしまうと判断し、やむを得ず架橋静脈を凝固切断したのであり、この手術手技に何らの過失もない。
また、本件手術後に静脈性脳梗塞が起きた原因を事後的に振り返って検討してみると、シルビウス静脈の発達が悪いのに前頭極の架橋静脈を凝固切断したため、前頭葉の静脈環流系が妨げられたのではないかと考えられるが、原告春子のシルビウス静脈の発達不全は軽度のものであり、術前にこのような事態を予想することは不可能であった。原告春子のシルビウス静脈の発達の程度を考慮に入れたとしても、前大脳動脈遠位部動脈瘤に対する安全かつ的確なクリッピングを行うために架橋静脈を切断して術野を確保した武田医師の手技に何ら過失はない。
5 本件手術後の原告春子の症状について
原告春子の意識は、平成四年九月下旬から一〇月初旬には清明となり、同月一四日、経口食事摂取を開始した。また、原告春子に本件手術後出現した右動眼神経麻痺に起因する複視と右側の眼瞼下垂、左側の片麻痺も、リハビリテーションを行う間に徐々に回復し、同月下旬には介助歩行も可能となった。
原告春子は、被告病院を退院した当時、軽度の左側痙性麻痺と右側動眼神経麻痺を残していたものの、独立、独歩が可能であった。
なお、被告が確認している原告春子の後遺症は、本件手術後の静脈性脳梗塞によるものであり、その後行われた前頭葉部分切除手術とは何ら関係がない。
四 争点
1 被告病院の原告春子に対する診療契約上の過失の有無
2 原告らの損害及び因果関係の有無
第三当裁判所の判断
一 診療経過
当事者間に争いのない事実及び証拠(甲五、乙一ないし四、一三の1、2、一四ないし一六、証人武田信昭、原告太郎本人)並びに弁論の全趣旨によれば、被告病院における原告春子に対する診療経過は、以下のとおりであったことが認められる。
1 未破裂脳動脈瘤の発見に至る経過
原告春子(昭和一九年一月二三日生まれ)は、平成四年七月四日、他界した母親を追いかけるような感じで「帰らないでくれ」と言いながら家の中を走り回ったり、玄関の鍵を掛けたりして、一〇分ないし一五分間程度かなりの勢いで騒ぐという異常な言動をとったことから、雪下国雄医師の診察を受けた。同医師は、右診察の結果、脳腫瘍の存在を疑い、原告春子に対し、被告病院で精密検査を受けるよう勧めた(争いのない事実、原告太郎本人)。
原告春子は、同月一○日、被告病院脳神経外科を外来受診し、同日に頭部CT(コンピユーター画像診断)、同月二一日に頭部MRl(核磁気共鳴画像診断)、同年八月一四日に頭部MRA(核磁気共鳴血管画像診断)の各検査を受けた。その結果、脳腫瘍は発見されず、前記突発症状については特段の診断がされなかったが、原告春子の脳底付近に未破裂脳動脈瘤の存在が疑われた。
原告春子は、同年八月一九日、精密検査のため被告病院に入院した。入院時、意識は清明であり、特記すべき神経症状はなかった。同月二一日、脳血管撮影検査を受けた結果、四個の未破裂脳動脈瘤の存在が確認された。その位置及び大きさは次のとおりであった。
<1> 脳底(後大脳動脈分岐部)動脈瘤最大径六ミリメートル
<2> 左側内頸動脈瘤最大径三ミリメートル
<3> 右側中大脳動脈瘤最大径六ミリメートル
<4> 右側前大脳動脈遠位部動脈瘤最大径二ミリメートル
2 本件手術の実施に至る経過
(一) 右検査結果を受けて、佐藤教授以下、当時医局に在籍し臨床に携わっていた医局員が出席して開かれた症例検討会(術前カンファレンス)において、原告春子の未破裂脳動脈瘤の治療方針について検討した結果、次のような結論を得た(証人武田、弁論の全趣旨)。
<1> 一般に、単一の未破裂脳動脈瘤が破裂する確率は年間一ないし六パーセントとされており、原告春子には四個の未破裂脳動脈瘤があるから、単一の未破裂脳動脈瘤の場合と比較して少なくとも四倍は破裂の確率が高い。脳底動脈瘤と右側中大脳動脈瘤はいずれも最大径が六ミリメートルに達しており、これらの動脈瘤は破裂の危険性が高い。脳底動脈瘤は、一旦破裂すると重篤な結果をもたらす可能性が高く、またクリッピング手術の成績も他の部位の動脈瘤に比較するときわめて不良である。したがって、現段階で開頭手術(脳動脈瘤柄部閉塞術)を行うのが妥当である。
<2> 四個全部の動脈瘤を処理するためには二回若しくは三回の開頭手術が必要であるが、手術侵襲を受ける回数はできるだけ少ない方が良いため、初回手術で右側に存在する三個の動脈瘤を処理し、左側内頸動脈瘤は後日改めて処理するのが妥当である。
<3> 脳底動脈瘤、右側中大脳動脈瘤、右側前大脳動脈遠位部動脈瘤を一度にクリッピング処理するための具体的方法としては、右側前大脳動脈遠位部動脈瘤に対するインターヘミスフェリック・アプローチと脳底動脈瘤及び右側中大脳動脈瘤に対するプテリオナル・アプローチを併用する方法が良い。正中を越えた右前側頭開頭に上眼窩縁を外すオルビトクラニアル・アプローチで、脳べらによる大脳(前頭葉)の圧排を極力避けるようにすべきである。
<4> 脳底動脈瘤は右側中大脳動脈瘤より深部に存在しているため、クリッピングの順序としては、まず脳底動脈瘤を、次に右側中大脳動脈瘤を、最後に右側前大脳動脈遠位部動脈瘤を処理するのが妥当である。
(二) 武田医師は、右(一)の術前カンファレンスの検討結果を踏まえ、原告春子及び原告太郎に対し、次のとおり、未破裂脳動脈瘤の破裂によるクモ膜下出血の危険があるとして、そのクリッピングによる予防的手術を受けるよう勧め、原告春子はこれを承諾した(甲五、証人武田、原告太郎本人、弁論の全趣旨)。
<1> 原告春子の脳血管撮影で四箇所の未破裂脳動脈瘤が発見された。その位置は、脳底動脈、左側内頸動脈、右側中大脳動脈、右側前大脳動脈遠位部である。この説明は、脳血管撮影フィルムを示しながら、また、脳の構造について脳の模型や構造図(甲五)を描きながらされた。
<2> 未破裂脳動脈瘤が破裂すればクモ膜下出血となる。クモ膜下出血は、脳内出血の原因の八○パーセントを占め、突然の激しい頭痛、嘔吐、意識低下、麻痺などの局所神経症状等があらわれ、二人のうち一人が死亡する。
<3> 未破裂脳動脈瘤一個当たりの年間破裂率は一ないし六パーセント、平均すると三パーセントであり、原告春子の場合には四個あるので、年間破裂率は一二パーセントとなる。原告春子は現在四八歳であり、八〇歳まで生きるとして、あと三二年もあるから、処置した方が良い。
<4> まず、右側の中大脳動脈瘤、脳底動脈瘤及び前大脳動脈瘤を手術することとする。
<5> 一般的に、未破裂脳動脈瘤の手術は破裂動脈瘤の手術よりも安全であるといわれている。ただ、脳底動脈瘤はかなり深い位置にあるので、脳動脈瘤の中でも手術が難しい。
3 本件手術の実施
武田医師らは、平成四年八月二八日午前一〇時二〇分から午後五時二二分にかけて、原告春子に対し、本件手術を施行した。本件手術の手順は次のとおりであった。
全身麻酔を導入し、頭皮を切開した後、右前側頭をオルビトクラニアル・アプローチにより開頭して硬膜を円弧状に切開し、右側中大脳動脈瘤と脳底動脈瘤に接近すべく顕微鏡を導入した。プテリオナル・アプローチ(シルビウス裂に沿って手術対象部位に接近していく手法)を採用して、シルビウス裂を遠位部から解放し、まず右側中大脳動脈瘤をクリッピングし、次に脳底動脈瘤をクリッピングした。さらに、インターヘミスフェリック・アプローチ(大脳半球裂に沿って手術対象部位に接近していく手法)を採用して、右側前大脳動脈遠位部動脈瘤をクリッピングした。なお、右側前大脳動脈遠位部動脈瘤のクリッピングを行う際、術野を確保するため、原告春子の架橋静脈二本を切断した。そのクリッピング終了後、術野を止血して閉頭した(乙二、弁論の全趣旨)。
4 本件手術後の経過
本件手術後、原告春子の麻酔からの覚醒は良好であり、頭部CT検査でも特記すべき変化はなかった。武田医師は、原告太郎に対し、その旨の説明を行った(争いのない事実)。
ところが、翌二九日午後、原告春子に意識障害が発生し、午後三時二〇分にはGCS(意識障害の国際スケール。正常は一五点。)が八点となったため、気管内挿管が施行され、呼吸と頭蓋内圧の管理が開始された。頭部CT検査の結果、右前頭葉の脳腫脹及び正中構造の左方への偏位が認められた。この脳腫脹の原因は、本件手術において右側前頭極の架橋静脈を切断したことによる静脈性脳梗塞であると推定された。グリセオール、マンニトールを用いた頭蓋内圧降下と脳循環改善を目的とした薬物療法が施行されたが、脳腫脹の進行を阻止することはできなかった。さらに、左右の瞳孔不同も出現するに至った(争いのない事実)。
そこで、武田医師は、同日夜、再手術を行う必要があるものと判断し、原告太郎の承諾を得た上で(争いのない事実)、同日午後二三時四五分から翌日午前三時二〇分にかけて、原告春子に対し、頭蓋内圧亢進を軽減するため右前頭葉切除術を施行した(乙二)。
その後、原告春子は、同年九月三日まで頭蓋内圧の管理、脳循環代謝障害の管理等を目的としたバルビタール昏睡療法を受けるなどした結果、同月九日から緩徐ながらも意識障害に回復の傾向が現れ、同月下旬から同年一〇月初旬には意識が清明となり、同月下旬には介助歩行も可能となり、同年一二月二日に被告病院を退院した(乙二、弁論の全趣旨)。
原告春子は、その後も、平成六年九月一二日まで被告病院に外来通院して治療を続けるとともに、海老名総合病院に通院してリハビリテーション等を受けた(弁論の全趣旨)。
二 原告春子の後遺症とその原因
1 原告春子の後遺症
(一) 視野狭窄及び嗅覚脱失
平成九年一月一三日付け診断書(甲七の1ないし3)によれば、原告春子は、両眼の視野欠損(左同名半盲)のため平成五年八月三一日から桜ヶ丘中央病院に通院し、視神経栄養剤の投与等を受けているが、視野は回復することなく現在に至っており、現在も桜ヶ丘中央病院に通院していることが認められる。
また、平成九年一月一〇日付け診断書(甲六)によれば、原告春子は、嗅覚脱失のため平成五年一二月二四日から桜ヶ丘中央病院に通院し、内服・点鼻治療を受けているが、嗅覚は全く回復しておらず、現在も桜ヶ丘中央病院に通院しており、今後も回復の見込みがないことが認められる。
(二) 片麻痺及び人格変化
原告らは、原告春子には右で認定した後遺症のほか、片麻痺の後遺症が残っている旨主張する。
しかしながら、入院診療録(乙二)及び鑑定の結果によれば、本件手術後、原告春子に右大脳半球、特に前頭葉の脳血流の低下による左片麻痺が出現したものの、その後のリハビリテーションにより、平成四年一二月二日の退院時には独立歩行がスムーズにできる程度に回復していたことが認められる。こうしたことに照らせば、現在も片麻痺の後遺症が残っていることについては、未だ立証が尽くされていないといわざるを得ない。
また、原告らは、原告春子には人格変化の後遺症が残っている旨主張し、原告太郎も、その本人尋問において、本件手術後、原告春子は、人相や目つきが変わったり、ものの言い方が変わったり、子供っぽくなったりしたほか、他人の庭の花や植えてある野菜類を平気で持って帰ったり、空き缶を窓から投げたりするなど、異常な言動をとるようになった旨供述している。
しかしながら、原告太郎の右供述内容については、これを裏付けるに足りる客観的、医学的な証拠が存在しないところである。かえって、原告春子らの会話を録音したテープ(甲一二)によれば、右録音がされた平成六年四月二〇日の時点における原告春子の言動に異常があるものとはうかがわれないところである。また、前記一1で認定したとおり、原告春子には、本件手術を受ける直前である平成四年七月四日に、他界した母親を追いかけるような感じで「帰らないでくれ」と言いながら家の中を走り回ったり、玄関の鍵を掛けたりして、一〇分ないし一五分間程度かなりの勢いで騒ぐという異常な言動が見られたというのであるから、こうしたことに照らせば、仮に、現在、原告春子に原告太郎の供述するような言動が見られるとしても、それと被告の診療行為との間に相当因果関係が存在することについては、未だ立証が尽くされていないものといわざるを得ない。証人佐野公俊(以下「証人佐野」という。)の書面尋問に対する回答書中には、前頭葉底面における障害の場合には人格変化の起こる可能性がある旨の記載があるが、これをもってしても、右判断を左右することはできない。
したがって、原告春子に片麻痺及び人格変化の後遺症が残っている旨の原告らの主張は採用できない。
2 後遺症の発生原因
前記一3及び4で認定した本件手術の実施経過及び本件手術後の経過に、鑑定の結果及び弁論の全趣旨を総合すると、本件手術でインターヘミスフエリック・アプローチにより右側前大脳動脈遠位部動脈瘤をクリッピングした際、術野を確保するべく架橋静脈を凝固切断したことにより、原告春子のシルビウス静脈の発達が不十分であったこともあいまって、静脈性脳梗塞が発生したこと、その結果、原告春子に前記一4で認定した意識障害等が発生し、最終的には右1(一)で認定した後遺症が残ったこと、そして、視野欠損(左同名半盲)の後遺症は、静脈性脳梗塞後出現した脳腫脹のために脳嵌頓を起こし、右後大脳動脈が閉塞されたため、右後頭葉に低吸収域が出現したため起きたものであることがそれぞれ認められる。
なお、原告らは、原告春子の後遺症の発生原因について、本件手術において脳を圧排する際脳べらで脳の表面を損傷したことが原因となって、右前頭葉の切除手術を受けることを余儀なくされ、本件後遺症を惹起した旨主張している。
確かに、証人武田の証言中には、前頭葉の外側面を脳べらで圧排するプテリオナル・アプローチと前頭葉の内側面を脳べらで圧排するインターヘミスフェリック・アプローチとを同時に行ったことにより、術後に圧排による腫れがいくらか発生するので、架橋静脈切断による静脈性脳梗塞と圧排による術後の腫れとがあいまって静脈性脳梗塞が悪化したのではないかと供述する部分がある。また、証人佐野に対する書面尋問の結果によれば、静脈切断と脳圧迫が加わった相乗効果が良くないとの研究結果が報告されていることが認められる。こうしたことを考え併せると、本件手術の際に脳べらにより脳が圧排されたことが、架橋静脈の切断により発生した静脈性脳梗塞を悪化させた可能性も疑われるところである。
しかしながら、鑑定の結果によれば、脳の圧排が強すぎた場合には、手術直後から脳挫傷の所見があり、意識低下等が生じるのが通常であるというのであり、このことに、前記一4のとおり、本件手術直後の原告春子の意識状態が良好であったことをも考え併せると、原告春子の前記1(一)の後遺症は、脳べらによる脳への直接の損傷というより、架橋静脈の切断に伴う静脈環流障害が主たる原因となって生じたものというべきである。この点について、原告らは、本件再手術直後に、佐藤医師が原告太郎らに対して、本件手術時にへらで脳を持ち上げる際、脳の重量で脳に傷が付いてしまったため、右脳の腫れがひどくなり、脳が頭蓋骨の中で一杯になって脊髄の穴に入り込んできたので、脳の逃げ道を作るため、右前頭葉を切除したとの説明を行った旨主張し、原告太郎も本人尋問において右主張に沿う供述をしているが、本件手術において脳を圧排する際、通常の手術の場合に伴う圧迫を超える程度の強い圧迫が生じたことを認めるに足りる客観的証拠のない本件においては、原告らの右主張及び原告太郎の右供述を採用することはできない。
三 被告の責任の有無について
原告らは、原告春子に対する右前大脳動脈遠位部脳動脈瘤のクリッピング手術は架橋静脈の切断のリスクを冒してまで実施すべきものではなかった旨主張している(前記第二の二2(一))が、当裁判所は、被告には右の点において責任があると判断するものである。その理由は、次のとおりである。
1 証拠(乙一二、二一、証人武田)を総合すれば、未破裂脳動脈瘤についてクリッピング手術を実施するか否かを判断するに当たっては、当該未破裂脳動脈瘤の大きさ、増大速度、部位、形及び自然経過、当該患者の年齢、状態及び合併症の有無、手術を行う施設、術者の技術水準等の具体的事情を基礎として、当該未破裂脳動脈瘤が破裂する危険性及び当該患者に対するクリッピング手術の危険性を総合的に勘案する必要があるというべきである。
そして、本件手術は、前記一3のとおり、プテリオナル・アプローチによる右側中大脳動脈瘤及び脳底動脈瘤のクリッピング手術と、インターヘミスフェリック・アプローチによる右側前大脳動脈遠位部動脈瘤のクリッピング手術を一回の開頭手術で行ったものであるが、前記二2のとおり、原告春子の後遺症はインターヘミスフェリック・アプローチによる右側前大脳動脈遠位部動脈瘤のクリッピング手術の際に架橋静脈を切断したことが原因となっているものであり、その他の手術とはアプローチ方法が異なることから、以下においては、右側前大脳動脈遠位部動脈瘤のクリッピング手術について、その適応の有無を検討する。
2 右側前大脳動脈遠位部動脈瘤の破裂の危険性
前記一1のとおり、原告春子の右側前大脳動脈遠位部動脈瘤は最大径二ミリメートルであった。この大きさから見た破裂の危険性については、証人武田も、大体直径が四ミリメートル以上の脳動脈瘤は破裂しやすいと一般的に言われており、単独で直径が二ミリメートルの脳動脈瘤であれば手術適応があったかどうかは疑問である旨証言しているところであり、この点については、医学文献(甲二、乙一二)からうかがわれる当時の医学的知見に照らしても、是認し得るものと判断される。そうすると、その大きさから見た破裂の危険性はそれほど高くなかったことがうかがわれる。
他方、前記一1のとおり、原告春子は本件手術当時四八歳という壮年であり、その余命は三〇年以上あったと考えられる(弁論の全趣旨)。また、鑑定人佐野の鑑定書中では、原告春子の動脈瘤にはblebがあり壁が薄く透見できる旨の指摘がされており、証人武田も右側前大脳動脈遠位部動脈瘤の壁が薄くなっており血液が渦を巻いているような所見が術中に見られた旨供述しているところである。
こうしたことを総合考慮すると、原告春子の右側前大脳動脈遠位部動脈瘤については、将来的に破裂する危険性が相当程度あったものというべきである。
3 右側前大脳動脈遠位部動脈瘤のクリッピング手術の危険性
(一) 証拠(乙二、九の1ないし6、一三の1、2、一四、一六、証人武田)によれば、本件クリッピング手術を巡る状況について、次の事実が認められる。
原告春子の右側前大脳動脈遠位部動脈瘤は、本件手術前に行われた脳血管撮影の結果、実測の深さが約五センチメートルであると推測され、大脳半球間裂の間隙が最低二ないし三センチメートル程度は必要であると判断された。また、術野の中央に架橋静脈が走っており、その真下に右側前大脳動脈遠位部動脈瘤があると推測された。そのため、武田医師は、こうした状況の下で原告春子の右側前大脳動脈遠位部動脈瘤についてクリッピング手術を実施するには、架橋静脈を切断することが不可避であると判断した。現に、本件手術に際して、前記一3で認定したとおり、架橋静脈二本が切断された。そして、その切断された架橋静脈二本は、上矢状静脈洞に注ぐ直前で一本に合流する形状となっていた。なお、原告春子のシルビウス静脈は未発達であった。
そして、鑑定人佐野の鑑定書によれば、本件手術で切断された原告春子の右前頭葉から上矢状洞への架橋静脈は非常に太くほとんどこの静脈一本で環流しているように見え、この架橋静脈とシルビウス静脈を同時に切断していることは、静脈環流を考えると少し気になるというのである。こうした指摘に、原告春子のシルビウス静脈が未発達であったことをも併せ考慮すると、本件手術に際して架橋静脈を切断すれば、静脈環流障害を引き起こす危険性があったものといわざるを得ない。
このようなところからすると、原告春子の右側前大脳動脈遠位部動脈瘤に対するクリッピング手術については、通常の場合よりもその危険性が高かったものというべきである。
(二) なお、原告らは、架橋静脈は過誤により切れてしまった旨主張している(前記第二の二2(四))ので、この点について若干検討を加えておく。
なるほど、平成六年四月二〇日に原告春子が被告病院で武田医師の診察を受けた際の会話を録音したテープ(甲一二)によれば、武田医師が、右診察の際、原告春子らに対して、本件手術において右側前大脳動脈遠位部動脈瘤を同時にクリッピングした際に静脈が切れてしまった旨の説明を行ったことが認められる。しかしながら、右説明は、その前後の会話の内容にかんがみて、右診察の際に同席していた原告太郎から、脳底動脈瘤のクリッピング手術の危険性を事前に説明すべきだったのではないかとの意見が述べられたのに対して、武田医師において、それが原告春子の静脈性脳梗塞の原因となったものではないとの説明を行おうとした際の言動であり、架橋静脈を意図的に凝固切断したのか、過誤により切れてしまったのかということが問題となっている文脈での説明ではない。また、入院診療録(乙二)中の本件手術の経過に関する記録(二三頁ないし二六頁)や本件手術の模様を撮影したビデオテープ(乙二二の1、2)中には、架橋静脈が過誤により切断されたり、それにより出血したことをうかがわせるような記載ないし映像は見当たらない。
以上によれば、前記武田医師の説明は、本件手術の際に架橋静脈が過誤により切れてしまったという意味内容のものではなく、本件手術の際に架橋静脈を凝固切断したことを表現したものというべきであり、原告らの右主張は採用できない。
(三) ところで、被告は、上矢状静脈洞の前方三分の一に流れ込む架橋静脈については、これを切断しても静脈環流障害等の後遺症は何ら起こらない旨主張し(前記第二の三4)、また、証人武田は、架橋静脈の切断について、本件手術当時、架橋静脈、特に上矢状静脈洞の前方三分の一にあるものを切断しても、術後に何らかの症状を起こすことはないと認識していた旨供述している。
確かに、当時の医学文献上は、架橋静脈が手術の障害になる場合は凝固切断する(乙七)、冠状縫合より前方の静脈は通常後遺症を残さずに切断することができる(乙六)、前頭葉極から五ないし六センチメートル後方までに存在する架橋静脈は全て凝固切断するが、経験上は、この範囲の架橋静脈の切断により術後問題が生じたことはない(乙一七)、インターヘミスフェリック・アプローチを実施する際、一般的には少なくとも一本の架橋静脈を切断する必要があり、場合によっては二本の架橋静脈を切断しなければならないが、この領域の架橋静脈を切断することがその後に影響を与えることはなく、後遺症をもたらすこともない(乙五)、上矢状静脈洞前三分の一は、出血が少なく、結紮してもよい(乙一九)、開存している上矢状洞は、前方三分の一であれば一塊にして安全に結紮又は切除できることが一般に知られている(乙一八)旨指摘されているところである。また、鑑定人佐野の鑑定書中にも、前頭葉の前三分の一の架橋静脈やシルビウス静脈は一般的に切断しても良いといわれている旨の指摘があり、証人佐野に対する書面尋問の回答書中にも同旨の記載がされている。
しかしながら、本件手術が行われる二年以上前である平成二年四月の医学文献(甲四)では、破裂右中大脳動脈瘤及び未破裂同側前大脳動脈末梢部脳動脈瘤のクリッピング手術を施行した際、前頭葉を上行し上矢状静脈洞に入る架橋静脈を一本凝固切断したために、術後静脈性出血性梗塞をきたした症例を紹介した上で、シルビウス静脈が通常の場合に比較して貧弱な場合には、前頭葉の静脈環流のほとんどが架橋静脈を介して上矢状静脈洞に流れていると思われるので、できるだけ架橋静脈を温存しなければならない旨指摘されている。また、本件手術直前である平成四年七月のものではあるが、医学文献(甲三)では、これまで前頭葉先端部の架橋静脈は主に前頭葉外側面上半より環流すると考えられていたが、剖検脳による検討の結果、頻度は少ないながら穹隆側はもちろん内側面、下面を含み前頭葉の広範囲より環流する症例も認められるとして、手術時にできるだけ架橋静脈を温存する必要があると指摘するとともに、特にクモ膜下出血の急性期など特殊な頭蓋内環境の下では重大な静脈環流障害をきたすことがあり、架橋静脈の温存には十分な注意が払われるべきであると指摘されている。さらに、本件手術から二年以上前である平成二年三月の医学文献(甲一)では、未破裂脳動脈瘤については、発見されれば即手術という考え方が一般的になった時期もあったが、実際の手術成績を見ると、患者の高齢化に伴う手術合併症は決して少なくないとして、安直な手術適応は厳に戒めるべきである旨の指摘がされているところである。
そして、鑑定人佐野も、その鑑定書中において、前記(一)のとおり、本件手術で切断された原告春子の右前頭葉から上矢状洞への架橋静脈は非常に太くほとんどこの静脈一本で環流しているように見え、この架橋静脈とシルビウス静脈を同時に切断していることは、静脈環流を考えると少し気になる点であり、鑑定人であればどうにか残して手術をするであろうが、教科書的には架橋静脈を切断しても可能といわれており、一般的には切断することもやむを得ないと思う旨指摘しているところである。
こうしたことに加え、被告病院は東京都文京区に所在する我が国でも有数の大学病院であり、最先端の医療水準を期待されていること(弁論の全趣旨)にかんがみれば、被告病院及びその医師には、患者のシルビウス静脈の発達の程度や切断が予想される架橋静脈の状況等の具体的事情によっては、当該架橋静脈の切断がその周辺の静脈環流系に影響を及ぼす危険性があるとの医学的知見をも踏まえて本件手術に当たるべきことが求められていたものというべきである。
(四) また、被告は、原告春子のシルビウス静脈の発達不全は軽度のものであり、本件手術前にこのような事態を予想することは不可能であった旨主張している(前記第二の三4)。
しかしながら、鑑定人佐野は、その鑑定書中において、本件手術で切断された架橋静脈は、非常に太くほとんどこの静脈一本で環流しているように見える、同時にシルビウス静脈も二本切断していることは静脈環流を考えると少々気になる、自分であれば狭い視野でもどうにか架橋静脈を残して手術を行うであろうとの意見を述べており、証人武田も、原告春子のシルビウス静脈は未発達であった旨証言しているのである。
また、武田医師は、プテリオナル・アプローチとの関係ではシルビウス静脈の発達状況を考えていたが、インターヘミスフェリック・アプローチとの関係ではそれについて考えていなかった旨供述しており、このことからすると、架橋静脈を切断すれば静脈性脳梗塞を引き起こすほどシルビウス静脈の発達が悪いという認識は本件手術前にはなかった旨の武田医師の供述は、にわかに措信し難いところである。
さらに、武田医師が本件手術の翌日である平成四年八月二九日から同月三〇日にかけて行われた右前頭葉切除術の経過を記載した書面(乙二[四〇頁])中には、本件手術後、原告春子に脳腫脹が発生した原因について、原告春子のシルビウス静脈の発達が悪く、加えて本件手術時に前頭極の二本の架橋静脈を凝固切断したことが、前頭葉の静脈環流系を妨げ、静脈梗塞を引き起こしたと考えられる旨記載されるとともに、本件手術前に行われた脳血管撮影の結果が添付されていることが認められる。
以上で説示したところを総合すると、本件手術の際に原告春子の架橋静脈を切断すれば、静脈環流に支障をきたす危険性があることを、脳血管撮影検査の結果から、あるいは少なくとも開頭後に架橋静脈の状況を検索した段階において、武田医師は予見し得たというべきであり、被告の右主張は採用できない。
4 以上説示したところによれば、原告春子の右側前大脳動脈遠位部脳動脈瘤が将来的に破裂する危険性は相当程度あったものの、他面、架橋静脈の切断を前提とした本件クリッピング手術の危険性もまた高かったというのである。このことに、もともと本件手術は無症候性の未破裂脳動脈瘤に対する予防的手術であり、また、原告春子の脳動脈瘤は、多発性であったものの、全て無症候性のものであったことを併せ考慮すれば、原告春子の右前大脳動脈遠位部動脈瘤については、静脈性環流障害を引き起こす危険性を冒してまで架橋静脈の切断を伴う本件クリッピング手術を緊急に実施すべき必要性はなかったといわざるを得ない。本件手術においては、原告春子の右側前大脳動脈遠位部動脈瘤のほか、脳底動脈瘤及び右側中大脳動脈瘤についてもクリッピング手術が行われているが、後者については別のアプローチ方法が使われているのであるから、それらについてのみ手術を行い、右側前大脳動脈遠位部動脈瘤については経過観察を行うにとどめるということも十分可能であったのである。
以上説示したところに、前記3(三)で説示したとおり、本件手術当時、被告病院及びその医師には、架橋静脈の切断がその周辺の静脈環流系に影響を及ぼす危険性があるとの医学的知見をも踏まえて本件手術に当たるべきことが求められていたことや、前記3(四)で説示したとおり、武田医師において、原告春子の架橋静脈を切断すれば静脈環流に支障をきたす危険性があることを予見し得たことをも併せ考慮すると、被告の担当医師には、原告春子の右側前大脳動脈遠位部動脈瘤に対するクリッピング手術が具体的な手術適応を欠いていたにもかかわらず、これを実施した点において過失があるものといわざるを得ない。
そして、右過失と前記二1の後遺症との間に因果関係が認められることは、前記二2で説示したところから明らかである。
したがって、被告は、右過失による診療契約上の債務不履行に基づき、原告春子に生じた損害について賠償すべき責任を免れない。
四 原告らの損害
1 逸失利益
原告春子の後遺症は前記二1で説示したとおり、両眼の視野欠損(左同名半盲)及び嗅覚脱失であり、また、原告春子は主婦でもあったこと(原告太郎、弁論の全趣旨)からすると、原告春子の労働能力喪失率は四五パーセントとするのが相当である。
また、平成元年度の市民税・県民税証明書(甲八)によれば、原告春子の昭和六三年分の給与所得は二七一万四六〇〇円であったことが認められるが、前記認定のとおり、原告春子は主婦でもあったというのであるから、逸失利益の基礎となる年収額は、平成四年の賃金センサス第一巻第一表の産業計・企業規模計・女子労働者・学歴計の該当年齢額三〇五万二五〇〇円とするのが相当である。
これらを前提に、中間利息をライプニッツ式で控除する方法により原告春子の後遺症による逸失利益の原価を算定すると、次のとおり一六六〇万〇六七〇円となる。
¥3,052,500(平均年収)×12.0853(ライプニッツ係数)×0.45(労働能力喪失率)=¥16,600,670
2 原告春子の慰謝料
前記二1で認定した原告春子の後遺症、前記一4で認定した本件手術後の原告春子に対する治療経過、その他本件訴訟にあらわれた一切の事情を勘案すれば、被告の債務不履行により原告春子が受けた精神的苦痛を慰謝するためには、慰謝料七〇〇万円をもってするのが相当である。
3 原告太郎及び原告夏子の慰謝料
原告太郎及び原告夏子は、被告に対して、債務不履行に基づき、右原告ら固有の慰謝料の支払を求めている。
しかしながら、原告春子の診療に関する診療契約は、原告春子と被告との間で締結されたものであり、原告太郎及び原告夏子と被告との間に、診療契約ないしこれに準ずる法律関係があったとは認められないから、原告太郎及び原告夏子が債務不履行に基づく固有の慰謝料請求権を取得するものと解することはできない(最高裁昭和五五年一二月一八日第一小法廷判決・民集三四巻七号八八八頁参照)。
したがって、原告太郎及び原告夏子の慰謝料請求には理由がない。
4 弁護士費用
前記1及び2で認定した損害額に、本件訴訟の審理経過、難易度等の事情を勘案すれば、被告の債務不履行と相当因果関係のある弁護士費用は二三〇万円とするのが相当である。
第四結論
よって、原告らの請求は、原告春子が二五九〇万〇六七〇円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日(本件請求は、債務不履行に基づく損害賠償請求であり、右損害賠償債務は期限の定めのない債務であるから、債務者は債権者から履行の請求を受けたときに初めて遅滞に陥る。)である平成七年五月一三日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 金井康雄 裁判官 藤田広美 裁判官 大森直哉)